コリアニュース №489(2013.1.22)
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【特報】“平壌は第2の故郷”実に67年ぶりの墓参/龍山墓地墓参団佐藤知也団長に聞く (朝鮮新報 2013年1月11日掲載)
日本敗戦直後の混乱で病気や飢えなどにより朝鮮半島北部で亡くなった日本人の遺骨問題で、神奈川県川崎市高津区在住の佐藤知也さん(81)を団長とする計16人の遺族らが昨年9月29日~10月4日まで訪朝。

 10月1日には日本人2421人を埋葬したとされる朝鮮・平壌郊外の龍山墓地を訪れた。

 朝鮮には71カ所の日本人墓地があるといわれているが、遺族が墓参するのは戦後初めて。

 佐藤さんに話を聞いた。

  佐藤さんは技術者の父を持ち、1936年から敗戦後の1947年まで朝鮮に滞在、解放された朝鮮の変貌を見た貴重な証人でもある。

 特に、解放後の朝鮮の臨時政府が在留日本人学校に寄せた数々の支援について語りながら、日本政府が今も、朝鮮高級学校生徒を「高校無償化」の適用からも除外している現状を批判し、「国連からも差別するなと勧告を受けているようだが、朝鮮政府が日本敗戦直後に、日本人や日本人学校にしてくれたことと比較しても全く恥ずかしい限りである」と語る。

  【朝鮮の人道的計らい】

 龍山墓地は平壌郊外の再開発で戦後、2度移設されたという。

 一行は最初、龍山墓地が元々あった場所を訪れた。

 現地に墓はなく、雑木林になっていたが、全員で黙祷(もくとう)した。

 この後、一行は北西に数キロ離れた現在の龍山墓地に移動。

 約500並んだ盛り土の墓の一つに、「龍山墓地諸精霊位 龍山墓地墓参団」と書かれた木製の墓標を立て、線香をあげて手を合わせた。

 団長の佐藤さんは墓に向かい、「皆様とお別れしてから67年。

 祖国を遠く離れた地で、さぞ寂しい思いをされていたことでしょう。

 心からおわびします」と話しかけ、言葉を何度も詰まらせた。

 居並ぶ朝鮮側の人々もハンカチに目を当てている人がいて、人の気持ちの優しさに触れたと佐藤さんは語る。

 この墓参団には佐藤さんの妻の和子さん(82)、兄の公也さん(83)も参加した。

 龍山墓地に埋葬された2421人の名簿を引き揚げの時に持ち帰ったのは佐藤さんの父・信重さんだった。

 その後、この名簿をもとに佐藤さんは遺族探しをはじめたが、それが大手紙に報じられた結果、2006年に14件の遺族が判明した。

 そして、朝鮮民主主義人民共和国の人道的な計らいによって、昨年9月に戦後初めての龍山墓地への墓参団の訪問と繋がったのである。

  佐藤さんは父・信重さんの赴任先朝鮮に、1936年、4歳のとき移住。

 家族とともに1948年7月に引き揚げるまで実に12年間を過ごした。

 信重さん(1902年~1981年)は山形県生まれ。

 蔵前工高採鉱冶金科に学んだ。

 東京で自動車工場勤めなどをしていたが、30年代の大恐慌のあおりで勤務先が倒産、失業苦の後、朝鮮・平安北道の寧辺鉱山の開発事業に当るために、妻と2男1女の家族5人を連れ平壌に渡った。

  【12年過ごした平壌】

  佐藤さんは引き揚げから実に52年ぶりの2000年7月、妻と兄夫婦4人で訪朝。

 2002年に2回目、昨年が3回目の旅となった。

 とりわけ、00年の初訪朝についてはその著書「平壌で過ごした12年の日々」(光陽出版社)で、「北朝鮮の陸地が見えるころから、私の興奮はいやがうえにも増してきて、それが一気に爆発したかたちだ。

 『ここが平壌だ、ここが平壌だ』と、なかばうわ言のようにつぶやきながら、私は窓の外の景色を食い入るように見つめた。

 …私は飛行機のタラップを降りたところで、誰も見ていなければ大地に口づけをしたい、とそんな映画のシーンのようなことも真剣に考えた」と興奮を隠し切れないほどの感動を綴った。

 00年の時に比べても昨年9月に見た平壌は、高層マンションが建ち並び、車の数も圧倒的に増えたと目を見張る変貌ぶりに驚く。

 妻の和子さんは「ごみ一つ落ちていない街の美しさにびっくり」と感想を語りながら、墓参団が滞在したのが、秋夕(9月30日、中秋の名月)のお祝いの日だったことに触れ、先祖のお墓参り、家族や親戚と食事したりして平壌市民が伝統を守りながら過ごしていることに感銘を受けたと述べた。

  佐藤さんによれば、1945年8月15日の日本敗戦時、平壌には旧満州や朝鮮北東部から逃れてきた日本人避難民で溢れ、その数は3~4万人ほど。

 「劣悪な生活環境の中で飢えと寒さ、伝染病、発疹チフスによって、多くの人々が亡くなった」と指摘し、死亡者の埋葬に困っていた日本人会の要請に応えて朝鮮当局は、大同郡龍山面の朝鮮人墓地を提供したという。

 ここに2400余人の日本人死亡者が埋葬された。

 多くがか弱い乳幼児、子ども、年寄り、女性だった。

 佐藤さんは「これが国策によって、大陸に送り出された私たち日本人の末路だった。

 この人たちは普通の生活をしていれば命を落とすことはなかった。

 日本の戦争の犠牲者だといって間違いない」と語る。

  8月15日の一週間前後は、まだ、鉄道のダイヤが以前と同じように動いていたため、高級将校や幹部たちの家族がいっせいにソウルに向かって列車で南下していった。

 その後、北側に入ったソ連軍と南側に進駐した米軍の間で38度線を境界線にすることを決めたため、南北間の往来ができなくなった。

 満州から着の身着のままで避難してきた人々は、平壌や元山で足止めされていたと、当時を振り返る。

 「われわれ、もともと平壌で住んでいた日本人の家は、朝鮮当局に接収されることになった。

 比較的大きな家で何世帯かが集まって暮らすようになった。

 我が家が8月12日に受け入れた満州避難民の山本さん一家も、夫が関東軍の将校ということであった。

 敗戦後、山本さんの家族は24日にわが家を出て、帰国する集団とともに南下していった」と当時のできごとを鮮明に思い出す。

  「それにしても、関東軍の上層部や将校たちは、敗戦とともに一般の日本人を保護するのではなく、自分たちの家族や知己を真っ先に逃したといって非難されているが、この事例もまさにその一つだ」と佐藤さん。

  「オエライさんたちの家族はうまく逃げて、下っ端の連中は生きるか死ぬかのひどい目にあう。

 避難民の人たちはその年の冬を越すのが苦しかった。

 ソ連の民生部が食料の手配をしていたようだが、朝夕にコーリャンのおかゆを一杯ずつ。

 避難民たちは朝鮮には生活の基盤がもともとない満州からの引き揚げ者だから」 【主席よりも高かった父の給料】日本敗戦から一年ほど経った頃、佐藤さんの父をはじめ高級技術者ら900人が、金日成北朝鮮臨時人民委員会委員長の要請で、主要の工場、企業所、つまり元の職場に残って、建て直しを図ろうと務めていた。

 その家族を合わせると2千人はいたという。

 技術者たちがなぜ、朝鮮に残ることになったのか、その事情はこうだ。

  日本の植民地統治時代は、朝鮮のあらゆる産業の基幹は統治者である日本人が握っていた。

 もし、その引継ぎを朝鮮側にせず日本人技術者が去ってしまえば、朝鮮の産業は打撃を受けざるを得ない。

 解放後、朝鮮のトップは、「当面、日本の技術者の力を借りよう」と政治的に判断したものだと佐藤さんは推察している。

 1946年8月1日、北朝鮮臨時人民委員会の金日成委員長署名の「北朝鮮技術者徴用令」が出され、つづいて臨時人民委員会から「日本人技術者確保令」が公布された。

 そのため、父・信重さんも炭鉱冶金の技術者として、残ることになった。

 その後、10月1日には日本人技術者たちは「工業技術総連盟日本人部」として事務所を構えることになった。

 場所は今の労働新聞社の裏手の辺りだった。

 本部長は常塚秀次・朝鮮火薬平壌支店長、信重さんは次長に就任した。

 兄・公也さんは事務職員に採用された。

  常塚本部長が金日成委員長に会って、日本人技術者たちの処遇について要請をしたり、金日成委員長からは「よろしく頼む」とのあいさつがあったという。

 日本人技術者たちも、戦争の反省もあり、朝鮮の産業復興と朝鮮人の技術教育に一生懸命あたろうと情熱を抱く者もいた。

 その理想を抱いて残留した人がかなりいたのも事実であった。

 日本人技術者に対する待遇も破格の扱いであった。

 最高位の金日成委員長の給与が4千円なのに、常塚本部長と父は6千円というからどれだけ優遇を受けたかわかる。

 人民委員会の課長クラスが1500円なのに、16歳の代用教員の佐藤さんの給与は2千円。

 月給のほかに白米が一人1日4合7勺、家族は一人1日2合の配給、酒、たばこなどの嗜好品や調味料、石鹸、衣類などの生活必需品の支給、さらに住宅が提供されて、朝鮮最高の待遇を与えられたのだ。

 また、日本人学校に通う児童・生徒たちの交通費も全額、朝鮮側が負担してくれたという。

  さらに、「日本人部」結成半年後の1947年4月28日、平壌では「日本人技術者家族慰安会」が平壌で開かれた。

 主催は「日本人部」で、後援は「北朝鮮工業技術総連盟」と北朝鮮劇場委員会。

 さらに北朝鮮臨時人民委員会宣伝部も賛同するなど、まさに臨時政府機関が総力あげてバックアップしてくれたという。

  当時の記録を詳細に残していた兄・公也さんの記録によれば、この年に北朝鮮臨時人民委員会が「日本人部」に支出した財政は、産業局から230万円、財政局から子弟教育費として200万円になり、これは、「日本人部」が属している「北朝鮮工業技術総連盟」の年間予算30万円に比べるとまさに破格の扱いであったことが分かる。

 北朝鮮側が、日本人技術者をいかに重要視していたかということでもある。

  まだ、朝鮮にとっては解放間もない時期であり、決して食糧事情もよくはなかった。

 日本人技術者があるときに、「こんなに優遇されていいのか」と聞いたら、朝鮮当局からは「私たちは、あの難事業の土地改革もやり遂げた。

 産業部門はさらに建国のために大事な部門で、そこには日本人技術者の力がどうしても必要だ。

 このことは一般大衆もみんな知っている」と明快に答えた。

 その言葉通り、街の人々はみな日本人技術者、家族たちに親切で、敗戦前のように日本人を刺すような冷たい目で見るのではなく、温かく接してくれるようになっていたと振り返る。

  佐藤さんは、日本政府が今も、朝鮮高級学校生徒を「高校無償化」の適用からも除外している現状を批判しながら、「国連からも差別するなと勧告を受けているようだが、朝鮮臨時政府が日本敗戦直後に、日本人や日本人学校にしてくれたことと比較しても全く恥ずかしい限りである」と語る。

  「日本の植民地時代に日本に痛めつけられて、憎悪や反感もあったはずなのに、軍国主義は憎むが一般の人々には分けてみるとおっしゃられた。

 戦争直後にあれだけのことを言えるところが立派だと、当時も思っていた。

 お国の場合は基本が違う。

 平壌では人民委員会の選挙もあったが、私たちは民主主義のみの字も知らないから、人々が楽しそうに選挙に行く様子を見て、本当に驚いたものだ」 【半世紀経っても読める朝鮮語】佐藤さんは「朝鮮の人たちとの関わり方が一番心に残っている」と述べながら、「日本の敗戦までは朝鮮人と交流したり話したりという記憶がない。

 それほど意識はしなかったが、私も植民地支配者の立場に立っていて、優越感を抱いていたかもしれない。

 敗戦後は立場が逆転したが、一時の混乱期を除き、私たちは朝鮮人から報復とか差別扱いを受けることはなかった」と述べた。

 また、当時の印象深いできごととして佐藤さんは、朝鮮語を習ったことをあげた。

  「朝鮮語は今ではすっかり忘れてしまったが、1947年の後半から約半年間、金日成総合大学の学生たちを講師として、朝鮮語を習ったことがあった。

 『アーヤー、オーヨー』から始まって、ハングルの読み書きを習った。

 近所のオモニたちとの会話の過程で、ムル(水)、トウンムル(温水)、チャンムル(冷水)、スル(酒)、サル(米)などの、日常用語は使っていたが、流暢に会話までするまではいかなかった。

 50年経ってもハングル文字を読めるが意味が分からない」 「朝鮮民主女性同盟という言葉も、労働党の関係者から教えてもらった。

 47年に結成大会が平壌で開かれた。

 『なんですか、女性同盟』って聞いたら、これからは解放された朝鮮の主人公として、新しい社会建設のために活動するんだよ、と教えてくれた。

 その翌年にわれわれ中学生も民青同盟を作った。

 あちこちで女性同盟や職業同盟などができた、それでよし、われわれもと言って作った記憶がある。

 もしかしたら、臨時人民委員会の教育局からサジェッションを受けたかもしれない。

 それで、兄・公也が初代委員長になった。

 あれは、歴史的なこと。

 兄貴はもう忘れているが」 「平壌で幼少期、少年期を過ごしたので、当時の遊び場であった大同江の川辺、牡丹峰辺りを歩くと懐かしい。

 今では大同江は水害を防ぐために西海閘門ができて、川幅が昔の倍になった。

 われわれが住んでいた頃は、チュチェ思想塔のある東大院区域、船橋区域の側が白い砂浜だった。

 私たちはそこで相撲とったり、シジミを取ったりした。

 もちろん泳いだりもして。

 今は幾重にも遊歩道が美しく造られているが、当時は土手があって、それを越えて川に下りて遊んだ。

 パンツ一枚で下駄を白浜に置いて泳いだ。

 ところが、干満の差が大きくて砂浜に置いていたパンツや下駄が流された思い出がある。

 牡丹峰の玄武門や乙密台は復元されたと聞いた。

 米軍の爆撃で破壊されたのだろう。

 牡丹峰の麓にある金日成競技場は昔は陸上総合競技場。

 戦時中はその場所で学校対抗の競技をやっていたので、よく覚えている。

 日本敗戦直後、金日成将軍が乗られた車列を見送ったことはある。

 道の端っこで人々が将軍は地方に行かれると噂していた」 「懐かしい大同橋は米軍の爆撃で落とされたと聞いたが、元の形で復元したと聞いた。

 昔の記憶によれば、大同橋は幅が12~13mはあったと思う。

 両端に歩道があり、胸くらいの高さの欄干がずっとついていた。

 橋の中央部は市電のレールと車道がしめていた。

 長さは600m。

 アーチ型の橋梁が10個、波形に橋上に並んでいた。

 橋の欄干は真鍮の細い棒が10cm幅くらいについていたので、棒切れをそれに当てて歩くと、カラン、カランとじつにリズミカルな乾いた音がして、愉快な気持ちになったものだ。

 平壌第一中学校へ通うようになると朝晩、必ずここを歩いた。

 時々棒切れでカランカランと音をたてながら、眼下の流れを見つめて歩くのが当時の日課であった」 「1943年に入ると、太平洋戦争は次第に戦況が傾いてきて、軍部は、飛行機や軍艦を造るためだといって、各家庭から金属製品を供出させた。

 それこそ、鍋、釜の類が隣組単位で山のように集められた。

 それから間もなく大同橋の真鍮の欄干も全部撤去されて、木製のものに替えられてしまった。

 しかし、この木製の欄干は傷みがひどくなり、欠けたりした。

 電車に乗れない貧しい朝鮮人やわれわれは、朝夕、この大同橋の狭い歩道を一緒になって歩いたが、欄干の壊れたところにさしかかると車道側に身を寄せて、恐る恐るという感じで歩を速めた。

 橋の高さは10m以上あったから、水面に落ちても、川原におちても、命を落とす危険性があった。

 実際、欄干欠落による事故の被害者は朝鮮人ばかりであった」 佐藤さんは今から考えてみると各家庭で使っている鍋、釜、人が使っている橋の欄干まで壊して軍に供出させていたこと自体、日本の敗戦は決定的であったことの証だったと指摘する。

 だが、軍国教育で、大本営発表ばかりの戦勝情報一色の中では、そんなことを想像する術もなかったと嘆く。

  いまだに、多くの遺族の墓参りが実現していない現状について、佐藤さんは「今回、朝鮮政府の人道的な計らいで墓参りができたことに心から感謝している」と何度も口にしながら、日朝関係が1日も早く正常化してほしいと述べ、平壌は「懐かしい第二の故郷、機会があれば何度でも平壌に足を運んでみたいし、その土地の空間に身を置いてみたい」 との願いを語った。

  (朴日粉)

●「朝鮮中央通信社」  http://www.kcna.co.jp/


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